本当に史実?「乙巳の変」蘇我氏の真実、天智天皇の思惑
天皇集権を目指した 天智・天武・聖武天皇の政治力②
『日本書紀』は、蘇我氏が天皇家に取って代わろうとしたので滅ぼされたとするが、これは史実としては疑わしい。蝦夷・入鹿は、中国の唐が朝鮮三国のひとつ、高句麗に侵攻するという軍事的緊張が高まるなか、あくまで国内の主導権をめぐる権力闘争に敗れ去ったにすぎない。
乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしたのは孝徳天皇(軽皇子)を中心とした勢力であった。天智は孝徳の甥に当たり、彼はこの叔父を天皇にするために政変に加わったと見られる。
孝徳の政権が行った一大改革がいわゆる大化の改新である。『日本書紀』を読む限り、天智が改革に主体的に関わったという痕跡は見いだしがたい。当時、天皇には軍事的な指揮能力がもとめられていたこともあって、天智は孝徳政権の軍事部門を統括していたようである。
たとえば、大化元年(645)9月、天智の異母兄で蘇我氏と親しかった古人大兄皇子が謀反の容疑で討たれるが、その指揮を取ったのは天智であった。また、大化5年(649)3月には、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が謀反の容疑を受け自殺した。この時、謀反の密告は最初天智に通報されている。
軍事を統括する天智を一貫して輔佐したのが中臣鎌足(のちの藤原鎌足)であった。鎌足は「軍国」に奉仕する軍事官僚としての生涯を歩んだといえよう。
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